蛇谷 りえ / JATANI RIE

フレームの外側

昔から関わってる映像のワークショップの何がこんなにおもしろいのかなーと最近考えてる。映像のワークショップをやってると、ビデオの前で身体をくるくる動かしたり、寝そべってみたり、普段出さない大きな声を出したりと、カメラによって身体が踊らされてる場面がしばしばみれる。汚れちゃうからダメ、とか、服がやぶける。とか、親とか先生の目を気にしてるこどもらが、夢中になって服を汚してる。自分たちのルールがそのときだけ発動する。「よーい、スタート!」から「カット」までは真剣な眼差しでカメラに踊らされて、映像の中には写り込まない「カット!」以降の表情はスタッフだけが知っている。チームで動くし、短い時間でいかに人を動かすかも、キーになるんだけど、みんなに指示を与える子もいるが、うまく伝わらず、神経質に腹を立たせ、彼ら彼女なりにやるべきことのままにもぞもぞと身体を動かす。統率のないごちゃごちゃした雰囲気。話をきいてないようで聞いてるので、最終的にまとまるし、あいつはああはいってもわかってる。と人間関係も支えてる。セットも、守られた環境でもないので、雨は降るし、人も通るし、チャイムもなる悪条件。プランどおりにゆくはずもないけど、プランどおりにゆけば喜び、予期せぬことが起きて誰かが落ち込んでも、一人がポジティブな回答を出せば、空気は一気に持ち返す。仲が悪かった相手とも、急にお互いの言ってることが通じて手と手を取り合ったりする。そんな「よーい、スタート!」になるまでのやりとりもドラマチックでなんとも良い。だれかとなにかあたらしいものをつくるには、共通した言葉は必要じゃないことを教えてくれる。それから、1年後には、ぜんぜん違う顔つきになってたり、身長になってたりするわけだけど、映像はなんども再生できる。たとえなんども再生しても、記憶はあいまいになっていくし、思い出が美化されていくのはもちろんあるけど、そういった機械と人間の付き合い方もいいよね。おじいちゃんやおばあちゃんになっても、映像作品そっちのけで、映像のフレームの外側について、語り、想いを馳せられることができる風景を夢みてる。(下書き 2015.12.19)

2015年12月19日 BLOG