蛇谷 りえ / JATANI RIE

人間

自分だったらどういう死に方がいいか、を考えると、どういう生き方がいいか、今を考えることってあると思う、でもそんなに単純なイコールでもなくて、死ぬまでの間、時間や空間を移動していれば、生き方と死に方のイメージは、すこしずつ変化していく。明日になればきっと言ってることは変わっていて、そのつじつまはあわせる方が矛盾してる。たぶん、あわせる理由もとくにない。

あなたがみた私が私だし、またあのこからみた私も私。角度や距離、空間が変われば私はちがう私になって表れて、その変化をいやがる気持ちもわかるけど、もうそれは仕方ないことなんだと思う。周囲や関係性、ちいさな社会性の中からの、自分を維持するのは限界があるし、それをのぞんでいるであろうってことは、たぶん自分の妄想にすぎず、自分が想像で作ってるものなんだと思う。私は、こういう人。こういう風に思われてる人。それはほんとに、想像の事象であって、そんなことはきっとひとつもなくて、あなたがその空間で好きなように過ごしていれば、それはもうあなたなんだと思う。

そういう外からの、周囲がつくる空気を読む力が、過剰反応しすぎて、犬もつくられた犬みたいに動き、えさをもらうし、こどもも、ばあちゃんも、自分を演じる。大きな空間の妄想的で幻想的な設定の中で、管理され安定した暮らしが過ごせるように、それらしい人間をふと、演じる。たとえば、そんな空間はだれかがつくった妄想世界で、この目の前はぜんぶ嘘だとしたら、あなたは一体どこに歩く?あなたのやってきたことは、あなたなのかしら?目の前を選ぶことだけがあなたを作ってるんじゃない、仕事をしていることがあなたじゃないだとしたら。目の前をどう見て、どう歩くか。歩くっていうのは、前でも、横でもない、どこにでも。ステップふんで、踊れるか。もしくは、はるか遠くに聞こえるように唄えるか。

わかんないけど、蛇谷りえって人間は、のりちゃんみたいに体が枯ちていく最後まで、何度も生まれ変わって、たくさん歩いた細い道が、後で誰かも通れる道になってたらと思う。

 

2011年12月06日 BLOG