蛇谷 りえ / JATANI RIE

集まりのはなし

普段、集まることがない人たちが、定期的に集まって、何かを組み立てようとして早1年ぐらいかな。はっきりどこからスタートしたか覚えてない。それぐらい、じわじわとやってきた集まり。yosomiという、展覧会だったり、演劇だったり、音楽だったり、本だったり、自分たちの生活における見ている立場の人たちが、見たものを発信するためのwebサイトがあって、印刷物にもしようと今、制作してる。(ZINEはさいきん限定数量でつくったよ)この視点は、私も前々から気になっていたことで、何かを表現したり、カタチにしたり、企画したりしてる人たちがメディアを通じて発信しているのを、ただ受信するだけというのも変な世の中だなーと思っていた。もしくは、アートに関しても、何か文脈や名誉がないと発信(発言)しちゃいけない空気とか、(そんなつもりはないと思うけど)。または、実際見ている人たちは、どんなこと思ってるんだろう。とか。私は、仕事でなにかを企画したりすることがあるので、対象者の実のところが聞きたいし、私自身、何かを見て言葉にならない気持ちってたくさんあるけど、言葉にすることで何を感じたか考える機会にもなるし、誰かの意見ものぞいてみたいと思って関わっている。

なるだけ、その集まりには、何かやっている立場ではなくて、見る側の立場の人たちが参加する。始めは、あ、どっかであったコトがある人だ。ぐらいの人たちが出会うんだけど、時間が経つにつれて集まりになってきて、その人の眼差しというかスタンスが見えてきて、個人が尊重される。メディアもできるだけ個人に寄り添ってつくってる。最近、何を見た?とかおすすめしたり、おしゃべりしたり。その人であることが重要な気がする。

集まりの目的は、webや印刷物の制作について話し合うためで、どう作るかを話す。ここで、さらに「このyosomiを見る側」の人のことを考えるようになると、パラドックスみたいな錯覚が私はよくなる。見る側の人を考えると、伝わりやすい言葉じゃないと、とか見やすさとか、見る側が求めてることを考えるんだけど、見る側って、私たちじゃん。みたいな。見る側の私たちが「これがいい!」と思うものをつくればいいと私は思うんだけど、たまに、どこかの誰かを見ているときがあったり、もしくは、可能性がたくさんありすぎて、決めきれなかったり。「だれか」を意識しすぎて、個人がなくなっていく瞬間がある。ぐるぐるする。うーん、まだ言葉にできてない気がするけど、話し合いをしてて、ぐるぐるして、たまに大事な何かが崩壊しそうになるのをぐっとみているときがある。まだなってないけど。

この間、是枝監督が「メディアは居場所になりえるけど、居場所になってはいけない。発信する向こうの人たちにどう関わるかを考え、働きかけないといけない」っていってた、その、居場所には留まらない感じの、瀬戸際な気がしていて、これをどう乗り越えるか慎重にしたいなあと私はひとりで思ってる。ここをね、合理的に、もしくは既存のやり方で乗り越えてしまうと、その大事な何かが崩壊しちゃう気がするねん。あーー、この辺が言えてないんだけど。

SNSとかそういう話の手前なんだと思うねん。すごく貴重な場面にいると思ってる。あー、言葉にできなかった。くやしい。

 

 

2011年07月09日 BLOG