蛇谷 りえ / JATANI RIE

そうか、メディア(媒体)はわたしたちのことばになりえるのね

ちょこちょこ仕事をもらっていて、打ち合わせとかで自分の関心のあった輪郭に触れる事がある。

とある団体のWSを手伝うのに、プログラム会議をしていて、メディアの話になる。それは映画作りのWSなんだけど、ここでのメディア(映像)をどう捉えるか、まあWSの目的はなんだ、と話をしていて、クライアント側の人がある一つの集団性について話をしていた。その集団性って言葉はなかなか初めて聞く言葉で、どういうことだろうと噛み砕いてもらったら、感覚的に共感ができた。そのあるひとつの集団性というものが、メディアを通すことで成立するっていうことなんだけど、ほんまかいな!という気持ちもあれば、それをこれから目撃できるかもしれないワクワク感は、もう言葉にならない。目撃してから話すとする。

そのとある団体がいうメディアというのは映像のことを指していて、いわゆる映像の言語じゃない(映画的に、映像的に、とかじゃない)映像を真ん中においた場(もしくは空間、環境、社会)について考えることが多いのだけれど、さまざまな人のその「場」を仕事を通して目撃してて、その「場」はほんとに多様で、その人の眼差しがほんとに出てる。そういう「場」を見ていて、私も私のみる「場」について頭の端っこで考えながら、実践してきてたのかもしれないなーと、思った最近。

「場」っていうのはたとえば、昔は映写機で見ていた8mmフィルムを発掘して、撮影者が語り部となって鑑賞する場。語り部は、当時撮影したこどものことや、じぶんのことを話すんだけど、今、見直してみると、もう見る事ができない昔の風景や文化、もしくは、誰かの思い出話によって思い出された自分の記憶とかが、じわじわ出てくる。それを鑑賞会で、わたしのときはああやった、こうやった。と次々と言葉で出てくるのだ。その風景は、決してわかる言葉じゃない、説明してるわけでも、正確な情報でもない言語。でも、その場が立ち上がって、しっかりと共鳴していることは、その場にいる人が一番わかってる。そんな時間が一体どう影響するのかは、わからない。福祉的に言葉にされたり、芸術として言葉にされたり、そんなのは無数にあるんだと思う。

もうひとつは、一人に一台のビデオカメラと三脚を渡して、ごくシンプルな撮影ルールをもとに映像作品をつくるWSがあって、それは4時間ぐらいじっくり時間をかけてつくっていく。撮影をしては、上映をする。上映をするときにはタイトルもつける。まるで句会のように、回しあいっこして上映し、感想を言う。そうしてると次第にその撮影者の目がビデオカメラになって、映像作品自体が、撮影者の視点・眼差しをつくっていき、個人が立ち上がっていく。彼、彼女らしさ、みたいなものが映像作品を通して浮き出てくる。

この二つは、同じ映像でも、ぜんぜん違うアプローチで。でも共通しているのは、映像(メディア)がその場の言語ツールになっているってこと。いわゆる言葉じゃない「ことば」で私の思っていることを表現したり、伝えたり、感じたりしてる。普段、言葉にならないこと、もしくは形にならないことが、映像を通して違う形になって、送受信している感じ。

それは、普段一人でもんもんと感じたり考えたりしていることが、「誰か」という社会が生まれて、それに対して受け止めてもらえたり、レスがあって、そういう流れがあるのは、生きていくにあたっていいなあ。と思ってる。

わたしなんか特に、言葉にするのが苦手な方で、なにも言わずにもんもんと作ったり足動かしたりしていたので、(いまは意図的に言葉と向き合っているけれど)やっぱりどこかで言葉じゃないことばでやりとりできる世界を夢みてる。説明とか、わかりやすく、とか、誰もに通じる言葉も広い世界で大切だけれど、もう一方で、私のことばで持って、それが可能な限り通じる人たちと、ひそひそとちいさな世界ですごしていたい。もしくは、言葉でないことばで、ここからより遠くへどこまでも広がる世界を感じていたい。さて、そうした上でわたしのことばについて考えていこうと思う。

 

 

 

2011年08月21日 BLOG