蛇谷 りえ / JATANI RIE

無題

自分のことを突き詰めて考えると、あんまりいい結果にならなくて、重たい、どうしようもない問題にぶつかる。その問題は、本当の問題じゃなかったりするのに、そのことがわからずもんもんとしてたときは何度もあって、またこのルートを通ってしまった。と感覚的におぼえて、思考がそのルートを通らないように気をつけるんだけど、たまに、お腹がすいていたり、疲れていたり、心がぎゅーっとなってると、また間違ったルートにいってしまうことがある。とことん底の方まで落ちる感覚もきらいではないし、毎年冬とか、そんな感じに浸ることが多いけど、自分と違う対象があると、だいぶん救われることは今までに不思議と身につけている。その対象をみつけるのは、自分と対象の境界線みたいなところで気がつくんだけど、自分っていうのがどこまでもいけるかなーとおもいきや、絶対ぶつかるものがあって、それを私は社会と呼んでるけど、社会とか、そんな大きな言葉にしなくても、人と人との間とか、身体とか、時と場合で、対象の意味は変化してる。それでも大体は人と人との間やと思うし、確信しつつあるけど、その対象にぶつかったとき、視線が相手に向いていくのが心地いいなと思っていて、相手を思う事で自分をみつけることができるから、それが結果的に自分のぶつかってたところに回路が出来て、またどこまでもいけるかなーって気持ちになれるのが良い。そういう、対象があって、その対象を乗り越える術みたいなものは、きっと大昔から人間が潜在的にもってるものとか、時代によって開発されているとおもっていて、私はそれをモードやと思うし、ファッションの中にも、見え隠れしてると思うし、スタイルとなって定着してるかもしれない。と思って探してる。自分を表すって、大そうやけど、自分がその対象にたちむかっていくこと、もしくは、やさしく振る舞う媒体に興味がある。それが結果的にわたしを自由にしてくれる。どん底で立ち止まってるわたしに光を与えてくれる。その光は、掴めないし、もしかしたら虚像かもしれないけど、そこから自分で何かをやってみることができたら、こっちのものだと思うんです。

2014年04月23日 BLOG