蛇谷 りえ / JATANI RIE

断つ

五穀とは、日本書紀と古事記で詳細が異なりますが、どちらも食べ物の女神から生まれた穀物とされています。今回は古事記を採用して、稲、粟、麦、小豆、大豆。それらを用いた加工品と、同じ科のものも摂らずに過ごします。なので稲科のサトウキビから作られる砂糖ももちろん除くため、五穀塩断ちの中には禁糖、断糖も含まれています。(by井口和泉)

五穀と塩を3日間断つ合宿をした。からだに変化があっておもしろい。胃や腸が軽くなって楽になるだけでなく、こころが不安になってしょんぼりしたときに、わたしはいつも「お腹がすいてるからだ」と、コーラのんだり、チョコ食べたり、コーヒーを飲んだり、元気をつけるためのおつきあいを考えていたけど、それがさらに不安定さを引き起こしていたということがわかった。だから、それらから断つことができると、自分がすこし強くなれる瞬間でもあっておもしろかった。疲れないように、落ち込まないように、ストレスを溜め込まないように、気分転換したり、そういう状況になるべく自分を守ってあげたり、そう、自分を自分で守ってる感じがおもしろかった。タンパク質が取れないので、手足が冷えてくるから、なるべく服をきたり、あたたかいものを飲んだりする。こころとからだはひとつになっていて、さまざまな自分の状況を解剖した。みんなはどうしてるの?って尋ねて、真似してみたり。アドバイスをもらったり。人のことに夢中で、自分を大事にしてきてこなかったことにきづく。そんな気は一ミリもなかったけど。自分に優しくする方法がよくわからないのは、そういうことらしい。

あと、わたしが口にしてきたものは、なんとなく、これまで小さいときから食べ慣れてきたもので、大人になっていろんな美味しいものを食べさせてもらってきたけど、それでも、それらは、だれかに与えられた食べ物で、自分で選んでいるわけじゃない。料理というのは、必ず、だれかに与える状況にあって、だから料理をする人の緊張感は「今晩、なに作ろう?」と毎日悩んでいるわけだ。そんなことはうっかり忘れて、「食べる担当」として食べてきたけど、3日間も食べ物を断つとなんで今、これを食べるのか、疑問が湧いてきた。家族や楽しい友人たちとの社交の場はさておき、一人で自分のためにつくり選べる状況での食材ぐらいは、もっと自分のために選ぶべきなんだと思う。自分がいま、なにをたべたいのか、もっと自分の声を聞いてあげると、食べることでからだも元気になる。それから、合宿の間、調理は、揚げる、蒸す、焼く、炊く、生の5つのどれかと、あとは切り方で工夫した。あと、食べ合わせ。今までだと、レシピをみて正解かのように、食材や調味料をきっちりそろえてたけど、レシピもなくて、調味料をつかわないとなると、調理法と切り方の二つだけを考えて、あとは食材の旨味について考えると作れる。レシピいらず。このミニマムさがぐっとくる。井口さんが作るプロセスをみているとテキパキ迷わず作っていく。途中、おかしな動きをするとその都度質問してたんだけど、全部言葉になって説明してくれるんだけど、最後まで観察する我慢を身につけようと思った。すぐ聞いちゃうんだけど、井口さんはつくる前にイメージがあって、それに向かってつくるから、(多少ずれてももちろん問題ない範疇で。)料理が完成したらわかることだったりもした。しかし、切り方や蒸し加減まではノーチェックだったので、家で見よう見まねで適当につくったら、全然おいしくなくてびっくりした。1mmも1秒もちがうと味が変わる。恐るべし料理。塩はなくても大丈夫とうまく調理された野菜の旨味に感動する。ということで、合宿が終わって、すこしずつこれまでの食事に戻している。体験があまりにも衝撃だったので、調味料を足すことに意識しながら食べては変化をおもしろがっている。あんまり考えすぎても楽しくないけど、茹で野菜と蒸し野菜の味も口当たりも全然ちがうので、いまは蒸し料理を特訓している。野菜のことを考えて、料理に集中することが大事。自宅で美味しい料理をつくっている人にとっては、今更なことだけど、感動したので最後まで書く。

それにしても「作る」「食べる」の関係は家庭の中にも、お店でも自宅でも、無数に存在している。それでも、いまなおレシピ主義が留まらないのは、市場が強いからなのだろうか。誰かの正解に頼りがち。合宿してる間、みんなと食の話ができたのもおもしろかった。実はいろんな思想を持っていてこだわりがみえた。言い合いになりそうな瞬間もあるけど、こんなにばらばらな価値観なのに、一つの空間にいたんだなってわかると、みんな偉い。もっとぐらぐらに惑わせたい。美味しい食材が身近にあるとわかっていながらも、わたしは慣れ親しんだ味覚は、ほんのすこしの価値だったんだなーって、合宿してるといろいろな味に出会えた。これからはなんでも食べれる気がする。ただし、わたしの体内にどうせいれるなら、美味しいご飯じゃなきゃ嫌だ。我慢もたまにはするけど。美味しいご飯はわがままなご飯じゃなくて、どんな状況でだれとなにを食べ分けるかってことだ。同じものを食べると欲求を満たすものがある。

やっぱり、わたしのからだは、たくさんの何かを与えられすぎた。情報も、制度も、教育も、食も。わたしが着たい服を選んでいきたいし、わたしが食べたい料理を食べたい、家も、ベッドも、なにもかも。もう、わたしのサイズに合わない何かをだれかに与えられるのはこりごりだ。だから、わたしもだれかに美味しい料理をつくれる人間になろう、そして、料理する場を開放して、みんなの料理の技術が衰えないようにしよう。それがいま唯一のできることだ。

2017年03月05日 BLOG