9月、10月、11月、そして12月。
もう12月。あっという間すぎて、あんまりちゃんと覚えていない。振り返るには、ここずっと1年は3月終わりで回ってる私としてはまだ気持ちが早いけど、ここ最近はささやかに新しい発展もあって、楽しく仕事をしています。
ここ最近は、remoの活動で、たみから抜け出して、関西へ通い、小学6年生の子らがじぶんたちで映画を作るプログラムを実施しています。ひとりの意見に流されずになるべくみんなで話し合いをすることが、映画づくりのルールのひとつにあるんだけど、プログラムの感想をみてると、話し合いするのが楽しい。と満足してる子がちらほらしてて、アイデアをみんなで話し合う機会ってあんまりないのかなーとその背景を想像してます。またその他のトットリでの仕事で、マスダマキコさんのプログラムをやったときには、保育園の年長を対象としたもので、ひとりで作りあげるんじゃなくて、協力しあって作る内容だったんだけど、そのときも、大人とはちょっとやり方が異なった共同作業がこどもらの間でなされてて、なんだか宇宙人の交信を見てるようでした。どちらも、こどもらを見守る姿勢からこそ見ることができた風景で、見てる方はそのわからなさがなんだか楽しい。
なにかをつくる過程のアイデアって、あんまり「言葉」になってなくて、そのとき反応する、なんか違和感やったり、感情やったり、気分みたいなものが、わわわーっと自由に溢れ出てて、その感覚だけで彼らの間でやりとりが成立してるようにみえる。それをメモ書きで一片だけでも、捕まえて伝え合ってる。だから、合間でおとなが「言葉」で参加しても、どこか空振りする感覚がある。あれってなんなんやろう。なんか特殊なやりとりなんよね。結局おとなは見てるだけで十分参加してる。そして、この映画づくりを通じた共同作業は、絶妙にそこを尊重してる。というか、せざるえない。だって当事者は(主役は)こどもたちだから。こどもたちがつくる「みんな」の感覚が映画に宿ってて、その感覚をおとなが見せてもらってるんよね。うーん、まだうまく掴めてないなあ。このプログラムをやってて見えてきてるこれは一体なんや!
しかし、もう少し大人になると、自分の意見として、言葉や理論に並び替えて「議論」する場面が増えるんだけど、その議論のおもしろさは、ここ数年でやっとこさ知ったものの、そこに上記の自由さを感じた体験はあまりたくさんはないのと、言葉のやりとりに私がなにかしらの引っかかりをぬぐえない感覚がある。言葉の自由さってどこにあるんやろうかー。不自由な経験が多いから、そんな簡単にあきらめたいわけでもないけれど、こんな私の意識が吹っ飛ぶぐらいの「言葉」のやりとりがどこかにないか、希望してる。戯曲とか朗読とかインタビューとか、言葉によってつくられるやつが見たいなー。
2013年12月05日 BLOG