設定によって生きてる
観察映画『演劇1』『演劇2』を見た。二本連続みると6時間弱かかる。でも、ずーっと見ていられるのは本当に不思議で私はやっぱり映像記録が好き。内容は劇作家平田オリザのドキュメンタリーになるけれど、タイトル通り演劇にまつわるいろいろが観察されていて、「演劇」でただの演劇場で行われていることだけに留まっていないことがわかる。
その映画の中で、「人っていうのはいろんな設定の中で演じて生きている。」「ほんとうの自分を探していると大変なことになる」という平田オリザさんの言葉があって、その言葉の意味は、映画の中での平田オリザさんのそのしぐさや姿勢をみているとわかってくるものがあった。最近考えている、環境とか状況とか、周りの目というものを、無視できない人間(私)が、社会の中で自由に生きていくにはどうしたらいいかなあと思っていたところだったので、その平田さんの言葉はとてもしっくりきて、今すこし考えてみる。
平田さん曰く、設定によっての演じ方は自由であり、平田さんは演じ方を役者にプログラミングするかのように、演劇を(人間の感情を)つくっていく。その「設定によって生きている」という仮設があれば、「自分」にまつわる状況を素直に受け止めることができる。例えば、工場でロボットになりきって作業する自分だったり、自分の意見や発言をこだわらずに、みんなでわーわー言いながら映画づくりに没頭することも、ある口実をもとに何かに動かされながら遂行することも、どれもきっと生きてる上での快感なんだと思う。そう思うと、その「些細な個人の演じ方」というのは、その人にしかわからないものであり、隣の人とそれを共有することも、調和することはきっとむずかしい、もっと言えば社会からしたら些細なものすぎて見えないものでもある。
だけど!そんな些細なものっていうのが人間一人ひとりの中には必ず存在しているはずで、そこを見て見ぬ振りされて「社会」に振り回されて、自分が明日生きていくことに心配しないといけないのはめっぽうご免だぜ!って思うし、そんな「些細な個人」の演じ方さえも、「公共性」によって制約されるの嫌だ。もちろん、誰かを侮辱したり傷つけたりする恐れがあるなら、配慮しないといけないけれど、誰のために守っているのかわからないルールは意味がわからない。その「些細な個人」の行動を周囲がわけわからなすぎて、受け止めきれなかったら「法律が…」「一般的には…」と、なにか大きなものさしを持ってくるのはずるい。そんなのは一人ひとりが持ってるほんの1mmほどの何かの感覚が合体してつくられた「モンスター」みたいなもので、実のところ実態のないものだ。そして、その設定というのをどこまでと捉えるのか、という問題だけど、目の前のあなただけの設定の場合もあるし、自分と共感する人や通じる人との設定の場合もある。その設定はどこまでかを考える必要はあるけれど、その設定外のものはどう言われようが全く関係がないものだと思う。ある設定には関係ない大きなものさしを持ってくることはやっぱり間違っていると思っていて、わからないことに対して直接向き合うことから逃れようとしているだけじゃないだろうか。わからないのは当たり前であって、わかることの方が奇跡だと思う。(それは話せば分かるとかそういう次元じゃなくて。)
だから私は、ある設定を設けた上でわからないことに対してはとことん向き合うことにした。すぐにわかることじゃないので保留したりはするし、ある設定に関する法律や制度も込みで調整して、そうした設定の中でなら、些細な個人の名のもとに生きていける気がする。
社会はそんな些細な個人とは関係なく、勝手にどんどん進んでいく。同じ人間がどんどん進めてるし、同じ人間同士が殺し合ったり、支え合ったりしてわけわかんないけど。私がみつけた人間ってのは、そこだと思ったし、そこに対してなにか体現していきたいと思っている。だーー、なんとも上手く言いきれていないがするけど、もうちょっと考えていきますー。
2013年02月08日 BLOG