確認の確認の確認
「確認の確認の確認や!」と、学生のときにバイトしてたコンビニの副店長の口癖だった。私がお金の計算をしても合わず、誰かがしても合わず、さらに誰かがすると合ったりする。その10円、100円どこにいってたんや!とマジックみたいな瞬間があった。そういう意味では、私のやってる労働部分はだれでもできるはずのところなんだけど、そのだれでもできすぎて、責任が不在になるのが、自分の体の中でピンとこなかった。その一つ目の確認作業は必要そうで必要じゃない。でもたぶん必要。
私はたしか27年前に母のお腹からぽこんと出てきて、物心ついたときに、お姉ちゃん、お母さん、お父さんって人がいる、ってわかって。時を経て、弟っていう人があらたに存在した。学校へいくと、蛇谷っていう名前をひっさげて、気の合う友達ができたり、先生がいたりして、部活にいくと、先輩がいて、バイトにいくと店長や料理人、バイトの先輩たちがいた。今度は、作品をつくる、イベントを開催するという目的で、知らない町にいって蛇谷です。って挨拶して、知らない町のおばあちゃん、おじいちゃんや、おねえさん、おにいさんと出会う。さらには、その作ったものを伝える対象となる、まだ見ぬ誰かを想像した。そうやっていろんな人や場所、経験を渡り歩いて、勉強になって、ここまで来たけれど。ここにいることを、社会的に承諾してもらうには、ものすごい確認作業が必要になるらしい。私がどこのだれか、どこで何をやっているのか、これを言葉だけではなく、書類に残して証明しないといけない。自分が社会的にどの枠にあてはまるのか、なんて考えたことなかったから、なんだかおかしいなあ。って思ってる。
社会的に、って言ってるけれど、このコアは何だろう?判子か?制度か?そんな制度いつ誰が、何のためにつくられたの?日本にいる自分たちがよりよく暮らすために、決まり事が生まれたんだったとしたら、何かおかしくなってない?決まり事が多すぎて、把握できなくないよ。いつ、誰が、なんのために決めたのさ。結局把握できないから、この範疇で生きようってなっちゃうよね。かといって、把握してやる!っとなっても、キャパがこえるから、他の人に知恵を借りるんだけど、それも範疇があるから、確認のための確認をしないといけない。可能かどうか。人が介在するってのは、そういうことなのか。もっと効率よくするには、結局お金なのか。
けれども、もう、その制度の中をどうこうしようと考えるのは一先ず止める。複雑だし、いまの自分にそれができる力はないし、それがしたいわけではないのでちょっと保留。確認の確認の確認の社会はあるということは理解しよう。うん、認めよう。たしかに目撃してるし。だから、これ以上膨張してほしくないから、見てみぬふりはしないでおこうと思う。もう一方で、確認がいらない時空のゆがんだ社会もあることを知ってる。それは、自分がなにものかを書類で説明する必要もない、生きてることだけで関係を築ける場所。それは、社会的役割ではなく、その場の目的によってあらたな役割を保管し、認め合える場所。そういう場所は、どこにでもあることを知ってる。でも、自分らがふいに見えなくなってきてる。社会ー!社会ー!ってなってる。先はまだ長いので、深呼吸して、ちょっと自分の目で確認しましょう。あー、そうだったそうだった。てなるから。その確認は一回だけでいい。でも、ちゃんと「自分で」確認しないとたぶん確認できない。そのもう一方の社会は、自分のことを知ってる周りだけじゃない。名前を知らなくても、世界中に広がれるぐらい大きな社会だと思うよ。
2012年01月15日 BLOG