ある世界
長袖一枚じゃすこし冷える部屋の中。電気ストーブを足下におく。足下はあったかいけど、それ以外の太ももとか、腕とか肩は肌寒い。
自分にまとわりついてるものについて、ひとつひとつ考えることが多い。これは、このぐらいの距離、これはあのぐらいの距離。ひとつひとつを、ちょうどいいあるべき場所に置くのが好きだ。あるべき場所というのは、みんなにとってではなくて、私とそのものの関係の上でのあるべき場所について考える。それは、毎日、もしくはその状況によって変わるので、それについて考えてしまう。そういうことを考えることが好きだし、少しずつ変わっていくことが落ち着いたりする。たまにそれらが、なにかこの目の前とは関係ない理由で、そのあるべき場所におけないとき、すごく心がざわざわする。それは色とか質感になって、頭の中に支配して、目を伏せたくなるぐらいに苛立つ。こどものときに、たまにみたプールの怖い夢の感覚に似てる。
みんなのいる場所にいくと、情報は一気に増える。あるべきところにそれらがきちんとあるのか確認したくなって、信じていいかどうか、ひとつひとつノックするときもある。それでも、ひとつひとつ確認はしきれないので、見てみぬふりをするときもある。でも、それをしてると、結局自分の目の前に複雑になってやってくるので、しかたがなく、その一部になることを徹する。その一部となり機能するためにも、情報が必要なので、ひとつひとつのものごとの流れをなるだけ把握できるようにする。把握できるように、みやすくしたり、動きやすくしたり、整理したりする。そうやって回り回ってきた自分の目の前はすっきりしていて、その瞬間を満足する。その規模はとても小さく、両手を広げての届く範囲。
最近、ちいさなうどん屋さんに入って、肉うどんを注文したら、夫婦で準備してて、仲が良さそうには正直みえない。そうしてたら、常連さんらしい人がきて、おとうちゃんが12時から天王寺さんに行ってるのにまだ帰ってけえへん。と心配してる。現在18時前。遅すぎる。お店の夫婦は心配のそぶりを見せるも、せっせと注文した肉うどんと、常連さんが頼んでいた天ぷらをあげる。お出汁が冷めたからチンしたろ、ごはんは少なめでええ。そんなたくさんいらん。と話をしながら、私の方に目を向ける。わたしも、少し心配そうなそぶりをする。肉うどんが出てきて、あまりおいしくない水がはいったコップがあって。肉うどんを一気に食べる。熱くて水を飲むんだけど、水はおいしくなくて、水のせいで、うどんのうすくておいしい出汁がさらに口の中で薄くなって惜しい気持ちになる。その間も、となりに座り天ぷらを食べながら常連のおばちゃんは心配してる。よくみたら、自分のばあちゃんに似てる。なんていうか、強気な感じが。ばあちゃんは公団住宅の一室で暮らしてたけど、病気やケガで、身体が不自由になって、億劫になって、元気は激減してる。でも、元気なときのばあちゃんは、こんな強気で。なつかしかった。肉うどんを食べ終わって、ごちそうさまをして、店を出る。ばあちゃん、元気かなあ。と遠くを思う。あの常連さんのおとうちゃんは結局無事だろうか、と心配する。でも、例えそのまま何かあったとしても、悪くないな。あんなに心配される人がいるなら、それはそれでいい人生なんじゃないかしら。
この世界は、みればみるほど、知れば知るほどにあるべきところにあるものがなかったり、何か違う理由でそこにあったりする。全部を全部、きれいに整理はできないし、統一はきっとできなくなってる。でも、せめて自分の目の前だけは、やっぱりあるべきものがあるべき姿であってほしいし、そういう風景をずっとみてたいと思う。そういう世界の中で最後を迎えられたらどんなに幸せだろうかしら。それはある世界がどんなけ残酷でも、いい笑顔で眠ることができるのかもしれない。
そうだ。そういう世界を私は夢見て、妄想しながら、私の生活をしてたんだけど、私ひとりで妄想するのはもう飽きてきたんだ。もっと、目の前で具体的にみていきたい。それをするには、このまとわりついてるものを切り離してみようと、思えるようになった。手を離してみたい気持ちがある。手を離して遠くから見てみたい気もしてるし、この目の前は、怖がらなくてもちゃんとここにあるんだなって、安心したのもある。自分ひとりの世界から、脱出したい感じ。私の目の前はちゃんとここにあるから、今度はそれがどう機能するか、考えたい。私の、ではなくて、この大きななんかの。
2011年11月02日 BLOG