蛇谷 りえ / JATANI RIE

「日用品のデザイン思想(著:柏木博)」読んでる

近代デザインの父はだれでしょう? という問題が、高校のテストで載っていて、うろ覚えで「ウィリアムモリス」と書いたのを覚えている。なんで、父なのか、理解してなかったけど、この本に、ちょうどモリス以降のデザイン思想が書かれている。この本は、強気の(半ば怒ってる)デザイン批判から始まり、デザインが消費者を作り出し、実体性のないイメージ(もの)を消費させているか、それは1920年からずっと始まっている経済システムであること、生活の中からものが生み出されてきた、近代デザイン以前ではなく、ものをつくることで、生活様式を変えようとする暴力さ、みたいなものがこんこんと書かれている。まだ読んでる途中なので、この本のデザイン的希望はどこにあるのか、ひやひやしながら読んでる(希望オチでもないかもしれない)。

近代デザイン以前は、生活の中から生み出される「もの」は、貴族は貴族の生活にあったもの、貧乏な人は貧乏な生活にあったものが専門家や自らの手で生み出された。だから、当時のものを見れば、時代性や生活習慣がまるわかりになる。品質のいいものはもちろん、貴族にしか手にわたらない。モリスとしては、産業革命をきっかけに、みんなが「ありうべき良き生活」がおくれるように、「もの」をつくることで生活を変えようとした試みだったけれど、現在となっては、ものと生活ががっつり切り離されちゃって、いろんな思惑でつくられたものが商品となって、私たちの生活の中にどんどん流れこんできて、消費させられるようになった。ユーザーは消費者ではなく、生活者と呼ぼう!という声は、私の学生時代のときにあったけど、そういうことだったのか! 「ものによって生活が豊かになる、グッドデザイン!」みたいなのが、雑誌やテレビに出てるほどデザインが一般化され、響きのいい言葉でしかない。このままじゃ、善かれと思ってつくってるデザイナーによって「ありうべき生活」を消費させられ続けてしまう。そんなのやだー! (生活者の声)

この経済システムにのっかって戦うデザイナーは昔っから山ほどいるし、私の学生時代の友達は経済システムの中で、寝ずに戦っているわけだが。私はそうじゃないアプローチがあるんじゃないかと、学生時代の最後ぐらいから思い始めた感覚を思い出した。私が感覚的に学んだ「デザイン」ってのは決して特定の人が持つ特別なものじゃなかったんだよなあ。その「そうじゃないよなあ」的気持ちを抱きながら、そうじゃない方向にむかおうと実践してるのかもしれない。とはいえ、近代デザイン以前にいまさら戻りたいわけじゃない。イメージばっかりで実体がなかったり、差異があっても、根本は同じだったりして、表面的で、ツクラレタしょうもない演劇みたいな生活環境でごまかしながら生きたくない。見てみぬふりをしたり、感覚が鈍くなって失われた身体性を取り戻したい。人間、おいしいものは身体が知ってるし、いいものはいいってわかるはずだもの!

この本を読んでいて、近代デザイン以降の教育をどっぷり受けた私は、自分の環境をふくめた「デザイン」の在り方に改めて、NOと思えてよかった。今現在は柏木さんの影響受けまくりだが、影響は流れていくものとして、現代のデザインを批判する目を養いつつ、自分の回答を整理していこう。柏木博さんの他の本もおもしろそう!

2015年02月18日 BLOG