蛇谷 りえ / JATANI RIE

しあわせそうとか、かなしいそうとか

おとうさんの散歩をしてるとき、おとうさんとどうやったらもっと楽しく過ごせるかなーともんもんと考えてる。おとうさんは、私が起きて仕事をし始めると鎖につながれて、たみの裏にいる。寝てるときもあれば、ぼーっと外をながめてるときも、トモダチがおやつを持って遊びにくるときも、猫がささっと通り過ぎるときも、小さい人間がきて吠えまくるときも、いろいろある。表情が豊かなので、退屈そうなポーズは様になってるし、気持ち良さそうに日向の部分に移動して、しっぽをふさふさしてるときもある。

見ている人間は犬に感情移入する。さみしそう、かなしそう、うれしそう、たのしそう。犬は言葉を話さないので、見ている人間がいろんな見方をして言葉にする。見ている私と違うソレが出てくるときもある。それにいちいちひっかかってても切りがないとはわかってるけれど、散歩をしているときに、妙にひっかかって考えてる。だけど、わたしは犬を「しあわせ」にするために飼い始めたわけじゃない、ってことが明らかになったから、これでいいのだ。と前むいて歩く。町を歩いてるとき、いま、わたしができる犬のしあわせについて、考えながら散歩するのはなかなか楽しい。犬のしあわせは、ごはんがいっぱい食べられることかな?トモダチができることかな?いろんな匂いを嗅ぎにいくことかな?飼い主でできるだけ長くいっしょにいることかな?じゃあ、そのためには今のわたしに何ができるかな? 犬をしあわせにするのが目的だったら、たぶん飼えないし、そうしたら仕事になる。30歳になった自分が、やっと仕事で、一人分の欲しいものとか食べたいものとかを少しは楽しめるようになったぐらいの人間が、言葉も話せない動物をしあわせにできる気がしない。しあわせは、絶対的なカタチがあるんじゃなくて、いろんなカタチになってあちこちに存在してることは、30歳になってようやくわかってきたから、犬とも、それを共有できたらと思う。しあわせにするのを目的にしたくはないけど、犬とわたしのしあわせについて考え続けるのは楽しい。

って、でも犬はそれをもう知ってる。だって、毎日散歩でちょっと違う道を歩くと、ものすごく鼻をくんくんさせて、たちどまったり、走ったり身体を反応させてる。いっしょに歩いてると、いつも生えてる花が手入れされていたり、いつも違う色したうんちが落ちてる。いつも違う人とすれ違うし、昨日会った人は着ている服がちがう。天気だって、あたたかい日もあれば、雨でびちょびちょになるときもある。道は毎日ちがう。犬は毎日ちがうことを今日初めて出会ったみたいに鼻で匂う。人間は頭がいいから、初めて出会ったみたいにはできないのでうらやましい気持ちになる。見る力が衰えているのがよくわかる。

2015年03月03日 BLOG