蛇谷 りえ / JATANI RIE

高知にいってきた

今回は高知市のごく一部のエリアにいった。町を歩けば、自転車やバイクが目立ち、家の庭にはヤシの木みたいな、大きな葉っぱの植物がでかい。風があたたかくて、一日中ノースリーブがちょうどいい。南国みたい。飲食店をめぐる旅行。一日目、初ワルン、はなればなれ珈琲、にこみちゃん、くもん屋、ひらめ市場、barモザイク、屋台安兵衛。2日目、とさのさと、まきの植物園、雨風食堂、再びワルン、桂浜、gumbo、東風食堂、Mojo、葉牡丹、ラウンドワンでボーリング。3日目、最後のワルン、terzo tempo、歩屋、台風から逃げるように瀬戸大橋を渡る。宿はかつおゲストハウス。

連日全部違う店にいけるほどのお店の量に圧巻。全部徒歩、もしくは路面電車で1.2駅先程度。ひらめ市場や朝市、夜中の屋台は路上感満載で、かっこいい。外食文化の歴史の深さを感じる。お店も個人店ばかりをめぐったから余計だけど、どの店も性質がぜんぜんちがってて、メニューが違う、メニューが同じでも味が違う。接客や店の音楽、風の流れ、お客さんの雰囲気、全部が要素となって構成されてることに気づく。そんなディテールの違いを楽しむようなマニアックな旅行。でも、食べるって行為は決して消費的ではなくて、とっても能動的で、胃袋さえ許されれば続くし、胃袋とともに終了しても、翌朝にはケロっとしてるのも乙。バルとか、食べ歩きってこういう楽しさなのね! と今更感あるけど感動。

たくさん食べて、帰りの車の中で、私だったら何を料理したいか、考える。どこで、どんな食べ物を、だれと。1人でもいいけど。誰と。だな。私はやっぱり。道具だな。いろんな味があっていい。好みがあってもいい。でも、結局最後は(はじめは)1人で、自分の味を自分が受け入れないといけなくて、その次にようやく、それを1人で食べてもいいし、誰かと食べてもいいし、相手はまだ見ぬ人なのかもしれないし、そのあたりは、やってみないとわかんない。そのわかんなさはドキドキするけど、想像すればワクワクすることで、その結果の風景は、高知でたくさん見れたから、勇気出てきたっ!て感じ。ファッションも料理も同じだわ。

うーん。受け入れるって、出来た人がつかうような言葉だけど、受け入れてることなんてないのかもしれない。犬だって、赤ん坊だって、生まれたときから、オレは犬だって思わないし、赤ん坊なんて、わけわからないまま生長だけしていくし。そう思うと30そこそこ生きてきた人間が、自分を受け入れることなんてあるのかなと思うと、ないかも。自分の思う自分と人から見られる自分のギャップに吐き気がするときもあるし、こうありたい自分の姿なんて、いろんなものに出会うほど欲張りになるし。生きるって大変だー!

昔、舞踊家が、「踊ってるときは、目を必ず開けること」って言ってた。目は開いてなきゃいけない。受け入れるというよりは、模索してたり、手探りだったり、周りの目があることを知っていながらも、雑踏の中で犬とか、鳥とか、人とかが自分を感覚的に動かしてる行為そのものが美しいし、その人なりの動きとか、癖とか、表情とかを垣間みれたときは嬉しい。もぞもぞと動きやカタチがかっこわるくたっていいから、凸凹のバラバラの生き物が生きてることが最強な風景だよね。別に最弱があるわけじゃないけど。

2015年07月17日 BLOG